時空干渉が始まる迄

十一年早くイオナミンを知った可能性
私は1984年1月15日以来、おなかにダムを作る錠剤イオナミンを使って、胃腸の内部を水洗いしている。
イオナミンの開発者である岡部薫博士がイオナミンの開発の確信を得たのは1973年頃らしい。このことについてはおなかにダムを作る錠剤イオナミンを参照。
私は長い間、1973年にイオナミンを知っていれば、楽しい人生を過ごせたのにと思っていた。また、岡部薫博士の最初の著作が出版される1983年12月より前にイオナミンを知ることは不可能であったと、思い込んでいた。
岡部薫博士の家は世田谷美術館がある公園の近くにある。世田谷美術館ができたのは1986年だという。そこから3kmぐらい離れた所に美術大学がある。1973年には私は19歳で大学生であった。1973年にその美術大学の学生の友人がいれば、1973年にイオナミンを知る可能性があったのである。
私が中学生の時に、美術大学を志望していた同級生がいた。突然私は、転出することになり、彼女と別れ別れになってしまった。
彼女は「わたし、デザイナーになると決めているの。」と言っていた。その美術大学はデザイナー志望者に人気のある大学である。彼女がその美術大学を志望校の一つにしていた可能性はある。
私が転出しなければ、1973年に彼女がこの美術大学の学生であり、私を世田谷美術館ができることになる公園に連れて行き、そこで近くに住む岡部薫氏に出会った可能性があったのである。即ち、1973年にイオナミンを知ることができた可能性があるのである。

未来を予見した校長先生
私は佐賀県唐津市朝日町で生まれた。父は、唐津市に本社がある昭和自動車に勤めていた。昭和陸運と昭和バスを運行していた会社である。お隣は佐々木さんといい、佐々木さん宅にはポピーという犬がいたという。唐津市朝日町には昭和陸運の事業所と社宅があった。
1956年2月29日、父の転勤で唐津市から福岡市上牟田に引っ越した。福岡市上牟田には長屋の社宅と二つの一軒家の社宅があった。初め、長屋の社宅に住み、後に一軒家の一つの社宅に移った。
1960年4月、私は福岡市立東光小学校に入学した。この時、近くに同級生である市丸藤正君が住んでいた。彼は佐賀県武雄市橘町の人であるけど、この時、御尊父の仕事の都合で福岡市内に住んでいた。小学校に入学してから数ヶ月後に市丸君は武雄市に戻った。武雄市の彼の家は後に神籠石だと分かる遺跡の近くにある。しかし、当時は神籠石とは分かっていなかった。彼の住所を知らないままでいた。当然、神籠石を知らないままでいることになった。市丸君が後に私の人生に大きな影響力を持つとは、彼も私も思っていなかった。
1961年、私が住んでいた社宅とその回りに四階建て鉄筋コンクリートのL字形の39戸入る社宅が建てられ始めた。窓が南北向きと東西向きのL字形であった。長屋ともう一つの一軒家は残った。建築中は福岡市東浜の昭和バスの営業所の社宅に住んだ。この間、福岡市立馬出小学校に通った。
1962年のある日、学校から帰ると家の中に何もなかった。上牟田に新しい社宅ができて引っ越したのだと直ぐに分かった。窓が東西向きの一階の最も北の部屋であった。福岡市東浜の社宅から多くの人が引っ越した。学校は東光小学校に戻った。
『少年画報』(少年画報社)に『未来の国のケンジ』という漫画があった。作者は桑田次郎。タイムマシンに乗ったら、未来にだけ行けるタイムマシンであった。過去に行けるタイムマシンを求めて、さらに未来に行き続けるという話であった。これが「タイムマシン」という言葉との最初の出会いであった。
1963年、許斐三郎氏が東光小学校の校長になられた。当時、東光小学校には講堂がなくて学芸会ができなかった。許斐三郎校長先生は、学校内のテレビ放送による学芸会を企画され、1964年に実行された。このテレビ学芸会は新聞とテレビで報道された。テレビ学芸会が報じられると、寄付金を贈る人が多く現れ、念願の講堂が建てられた。この年には、許斐三郎校長先生は私の担任である津田邦雄先生の仲人をされた。
ある日、家の換気扇の中に何かありそうに思えた。ベランダから換気扇を見てみると、中から雀が出てきて私の鼻先から上に飛び去った。換気扇の中に雀が巣を作っていたのである。母に伝えた。数日後には社宅中の多くの部屋の換気扇に雀が巣を作っていたことが分かった。社宅中、大騒ぎであった。
『鉄腕アトム』が放送された。その話の一つに、タイムマシンで未来に行き続けると過去に戻り再び未来に行くというのがあった。この話の題名に「タイムマシン」という言葉はなかった。ある家で幽霊が出るというので、アトムが呼ばれた。調べてみると、タイムマシンに乗っている少年が一瞬現れて幽霊と思われていたのであった。タイムマシンが故障していて止まらなかったのであった。タイムマシンは循環していたのであった。時間は循環しているという考えに基づいて作られた話であった。
新聞の正月特集記事に未来予測があった。その中に「人工語エスぺラント語が話されるようになる」という記事があった。エスぺラント語という言語があると知った。
『未来の国のケンジ』を描いた桑田次郎は『エイトマン』の漫画を描いた。『エイトマン』の作者は桑田次郎とは別人である。『エイトマン』のアニメが放送された。
『エイトマン』の次のアニメは『スーパージェッター』であった。スーパージェッターはタイムマシン流星号で30世紀から20世紀にやってきた。流星号が故障して20世紀に留まることになった。
『スーパージェッター』は30世紀から20世紀にやってきた人物が20世紀で活躍するという話である。流星号はタイムマシンとはいえなかった。乗り物というだけであった。『スーパージェッター』を時間旅行の話と思うことはなかった。それでも、乗り物というだけである流星号がタイムマシンの典型になってしまった。未来にだけ行くタイムマシンの話であった『未来の国のケンジ』と比べると、未来から来たという『スーパージェッター』は画期的な物語りであった。「ドラえもん」と「時をかける少女」は『スーパージェッター』の後追いである。『スーパージェッター』がなければ、「ドラえもん」も「時をかける少女」もなかった。
卒業式が近づくと、許斐三郎校長先生は、卒業生一人一人の似顔絵を描かれて、贈られていた。これも1965年2月に新聞で報じられた。新聞報道の写真には許斐三郎校長先生と一緒に原子さんという知っている上級生が出ていた。
1965年3月、父が武雄営業所に転勤になった。私は、翌年の卒業時に許斐三郎校長先生が描いてくださる似顔絵を楽しみにしていた。転出すると、似顔絵を描いてもらえなくなる。しかし兄が翌年に大学を受験するために、父は武雄に単身赴任することになり、私は小学校卒業迄は福岡市内に残ることになった。社宅からは追い出されて、近くの小島ワカノさんという人の家に間借りした。別の棟には行徳さんという若い夫婦がいた。
1966年2月、許斐三郎校長先生が描く卒業生の似顔絵は、小川宏ショーというテレビ番組で報じられた。小川宏ショーは校長室から放送された。この時は私のクラスから選ばれた児童たちが校長室にいた。私もその中にいた。リポーターは女子にばかりインタービューした。後で母に聞くと、私は映っていなかったという。テレビは父が武雄に持っていっていた。母は行徳さん方で小川宏ショーを見た。
許斐三郎校長先生は卒業生の似顔絵描きを始める前に、各担任の先生達を通して、親に名前の由来を尋ねておくように指示された。私のクラスは、担任の津田邦雄先生から、これを聞いた。
母は私の名前の由来を知らなかった。祖母が私の名を付けたのだという。当時は家に電話がなく、私の名前の由来を知ることはできなかった。
小川宏ショーから数日後に私が似顔絵を描いてもらう日が来た。 私の似顔絵を描く前には、名前の由来を知ることができなかった私を、許斐三郎校長先生はしかった。名前の由来を知るのは、卒業後の人生の指針となる言葉を各卒業生に贈るためだったのである。
許斐三郎校長先生は全児童達を良く知っていた。日頃の私の行動から、「探求」という言葉をあたえ、私の似顔絵に書き入れられた。私は念願の似顔絵を受けとることができた。
後に凄まじい嫌がらせにより、私はこの「探求」という言葉を忘れていた。「おなかのダムは無重力が理想的」であることを岡部薫博士から聞き出して、おなかに逆さのダムを作るようにしたのは探求である。これについてはおなかにダムを作る錠剤イオナミンを参照。
許斐三郎校長先生は、私の未来を予見したのである。

妨害を始めたのは狡い政治家・進藤一馬
1966年3月5日、東光小学校の三階の教室から板付基地を見ると、見かけない旅客機がいた。板付基地と呼ばれていたけど、飛行場があった場所は席田という。板付は飛行場から数キロメートル離れた所にある地名である。翌日、富士山の近くで旅客機が乱気流に巻き込まれて墜落したという報道があった。板付基地に来ていた旅客機であった。
兄は九州大学理学部化学科に合格した。合格後、兄が卒業した福岡高校のPTAのテンホン氏が来て、寄付金一万円を強制した。福岡高校の体育館を建てる為だという。この時、兄と私は外出していていなかった。しつこい強制に負けて、母は一万円を出してしまった。
帰宅した私はテンホン氏の名を聞いて驚いた。テンホン氏の娘が隣のクラスにいたのである。3年後にテンホン氏の娘が福岡高校に入学することは予想できた。テンホン氏にとっては寄付金は役に立つのである。しかし、これから武雄中学に入学する私は福岡高校に入学する筈がない。この寄付金は私と家族にとって死に金なのである。当時福岡市内の路面電車の料金が25円であり、一万円は大金だった。
この寄付金強制は福岡高校の体育館の建設の為だけでなく、代議士進藤一馬の選挙対策の為でもあった。
代議士は、いつも衆議院が解散される時に備えているものである。毎年九月に福岡高校の体育祭が行われる。進藤一馬は、必ずこれに出席していた。進藤一馬が、福岡高校の同窓会の会長であったからである。そして、選挙対策でもあった。
進藤一馬にとっては、福岡高校の体育館がこの年の福岡高校の体育祭より前に完成しておく必要があったのである。体育館の大きさを欲張らなければ、寄付金は不要だった。体育館を二階建てにしようとしたのである。一階分の大きさだけでも九電記念体育館と同じくらいの大きさであった。九電記念体育館といえば、当時、大相撲の九州場所が行われていた建物である。一階建ての体育館で充分なのであった。
体育館を二階建てにしようとして、地盤沈下が起こり、その対策の費用として、卒業生の家にまでPTAの人が寄付金の強制に来たのであった。PTAの人は、地盤沈下については話さなかった。
どうしても二階建てにしたいのならば、体育館の完成を延ばせばよいのである。体育館建設の名目は福岡高校の創立五十周年記念であった。しかし、この年は創立四十九周年であった。完成が一年遅れても、恥はかかないのであった。二階建ての体育館建設を急ぐ理由は進藤一馬の選挙の為だけであった。
家に寄付金強制に来たテンホン氏は、寄付金強制の本当の理由を知らなかった。三年後に入学する娘のことだけを考えていた。当時の福岡高校のPTAと同窓会は、進藤一馬に奉仕する為の組織であった。
東光小学校の許斐三郎校長も、学校の講堂を建設する為には寄付金を必要とした。しかし、寄付金の強制をPTAにすることはなかった。福岡高校のPTAが、進藤一馬の選挙対策として、福岡高校の体育館を必要以上に大きくし、寄付金を強制したのである。進藤一馬には責任が及ばないように巧妙に仕組まれていた。許斐三郎氏と進藤一馬を比べるのは、馬鹿馬鹿しいことである。
後に私は、この寄付金強制が、私と岡部薫博士との出会いを妨害する工作の始まりであったことを知るのである。これが時空干渉の始まりであった。
この寄付金強制が私がおなかにダムを作る錠剤イオナミンを開発した岡部薫博士と出会いを妨害する罠だったのである。これについては別れの時空選択教育破壊工場の悪魔達池永投手の追放は時空干渉国際語教育協議会の崩壊おつぼ山神籠石と時空干渉者を参照。

このサイトの頁構成図タイムマシンの初歩教材について
日出島哲雄(秀島哲雄)

2018年10月1日に「2019年3月31日Yahoo!ジオシティーズのサービスを終了」というメールが来た。
そのメールにはホームページの引越先が六つ紹介されていた。
2019年2月27日水曜日Yahoo!geocitiesから忍者ホーページhidesxima.ojaru.jpに引っ越し。
Yahoo!geocitiesから引っ越し。Yahoo!ジオシティーズから引っ越し。
2019年3月28日木曜日Yahoo!geocitiesから忍者ホーページhidesxima.ojaru.jpに転送設定。
2019年3月31日Yahoo!ジオシティーズのサービス終了