おつぼ山神籠石と時空干渉者

私は、おなかにダムを作る錠剤イオナミンを知った1984年1月15日から1992年まで数十回、岡部薫博士を訪ねて話を聞いた。
地下鉄の用賀駅から岡部薫博士の家まで行く間には、世田谷美術館への行き先表示板がある。世田谷美術館がある公園は岡部薫博士の家の先にあるので、世田谷美術館に行くことはなかった。岡部薫博士の家の近くに世田谷美術館があることを覚えないままであった。1993年には両親がいる福岡市に戻った。
1972年にはおなかにダムを作る錠剤イオナミンを求めて岡部薫氏を訪ねる人々がいた。これについてはおなかにダムを作る錠剤イオナミンを参照。
私は長い間、1973年にイオナミンを知っていれば、楽しい人生を過ごせたのにと思っていた。また、岡部薫博士の最初の著作が出版される1983年12月より前にイオナミンを知ることは不可能であったと、思い込んでいた。
1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊した。NATOは必要でなくなった。
1990年12月25日、ルーマニアのチャウシェスク大統領が裁判なしで処刑された。ルーマニアがNATOの解散を要求する可能性はなくなった。
1991年6月、ユーゴスラヴィアがNATOの解散を要求する可能性はなくなった。
ソヴィエト連邦が消滅した1991年12月、ロシアのエリツィン大統領は核兵器の廃絶とNATOの解散を要求できなかった。
日経サイエンスの1994年5月号のドイッチとロックウッドの「タイムマシンの量子物理学」(タイムマシンの初歩教材についてを参照)を読んだ。その後、岡部薫博士の家から美術大学まで約3kmであることを知った。井手洋子さんが「わたしデザイナーになると決めているの」と言っていたのを思い出した。井手洋子さんとの別れの時空選択がなければ、1973年に岡部薫博士に会えたかもしれないと思うようにになった。
井手洋子さんとの別れの時空選択があって教育破壊工場の悪魔達による罠にはまってしまう人生よりは、それがなかった人生の方が良いに決まっている。それならば、これらがなかった時空でならば、1973年に岡部薫博士に会えたかもしれないと思うようにになったのである。

1999年4月になると、福岡市から佐賀県武雄市まで日帰りできるようになった。井手洋子さんとの別れの時空選択により、わたくしは武雄市から転出したのであった。
5月30日に33年ぶりに武雄市に行った。父が働いていた昭和バスの武雄営業所はなくなっていた。その営業所の中にあった社宅に、私は住んでいた。当然、その社宅もない。営業所の隣にあった武雄中学での同級生杉邑雅久君の家であった青果市場もない。杉邑雅久君は、武雄市内の別の場所に移っていた。
武雄私立図書館に行くと、郷土史の本が置いてある所に人がいた。声をかけると、名刺を受けとった。武雄市の郷土史研究家である武雄芳輔氏であった。1999年には武雄市立図書館はJR佐世保線より北にあった。後に武雄市立図書館はJR佐世保線より南に移ることになる。
武雄中学で私とは別のクラスに武雄のりこさんという人がいた。武雄芳輔氏に尋ねたら、「のりこは私の娘です」と言われた。武雄中学に入学した時、郷土史を学ぶクラブに入りたかったけどなかった。武雄のりこさんは私とは別のクラスだったけど、郷土史研究者の子が武雄中学の同期生にいたのである。
2000年1月9日、福岡市立博物館で古田武彦氏の講演があった。壬申の乱の吉野は佐賀県の吉野ヶ里という話だった。「壬申の乱の原因は、唐が弘文天皇を嫌ったからに決まっている」と古田武彦氏は言われた。「大分君が壬申の乱で活躍するのは、壬申の乱が九州で勃発した証拠」とも言われた。講演の後に力石巌氏と知り合った。力石巌氏は古田史学の会の世話人をされていた。
2000年6月4日に杉邑雅久君を訪ねた。私に、井手洋子さんとの別れの時空選択が起こらずに、高校卒業まで武雄市に住んでいたならば、おつぼ山神籠石という史跡に行っていたはずであった。
井手洋子さんとの別れの時空選択が起きた為に、私はおつぼ山神籠石を知らないままであった。この時には、武雄市におつぼ山神籠石があることを知っていた。おつぼ山神籠石を知ったのは古田武彦著『失われた九州王朝』と古田武彦著『古代史60の証言 金印から吉野ヶ里まで 九州の真実』(駿々堂、1991年2月28日)による。
杉邑雅久君は「大宅先生と出会って、「杉邑」と呼ばれた。大宅先生は今、若木小学校の教頭をしている。」と言う。「御厨君という難しい字の同級生がいたな」。「瀧本極君が運転する車とすれ違うことがあるよ」。
私は佐賀県の市町村の地図帳を持ってきていた。杉邑雅久君が地図を見て、井手洋子さんの親友である中川京子さんの実家を「ここだと」教えてくれた。その場所は、私が住んでいた社宅跡地とおつぼ山神籠石の間にあるのである。1966年には武雄市の地図はなかった。
杉邑雅久君が自家用車で、私をおつぼ山神籠石に連れていってくれることになった。おつぼ山神籠石に行く途中で中川京子さんの家の近くを通った。
おつぼ山神籠石に着くと、記念碑の日付が「昭和四十一年九月三十日建設」(1966)と彫られているのが目に付いた。この日付は、私が武雄市から転出した二ヶ月後である。私が武雄市から転出しなければ、私は当然ここに来ていたはずである。私は歴史を好きなので、繰り返しここに来ていたはずである。その度に中川京子さんの家の近くを通っていたはずである。
以下の写真は2010年6月16日に撮りました。
写真1はおつぼ山。
写真2の石の列が、おつぼ山神籠石
記念碑のそばに書いてある説明を添付します。句読点がない文です。

神籠石は古墳時代後期に築成されたと推定されている朝鮮式山城に類する古代史上重要な遺跡である
おつぼ山神籠石には杵島山の派生して半独立ノ丘を呈している標高六二米のおつぼ山に築成されていて昭和三十七年五月に発見された全国八番目の神籠石である
この神籠石の列石の延長は約一八七0米でその中約七六0米は破壊欠失している門址二ヶ所水門址二ヶ所土壘一ヶ所が現存しており列石線の前面には三米の間隔で柱孔が並び木柵が設けられていたことを物語っている
水門は谷の上方へ向かってアーチ形に構築されており奥行九米の間には無数の栗石が投入され中央には石囲いの暗渠が通じていて放水装置であることを知ることができる土壘は峰と峰との鞍部を連結するため九米幅に二列に石を並べ盛土をしたものであり門址は開口三米でそれぞれ四個と六個の柱孔がある
写真3の赤い線が神籠石の列
写真4の記念碑は第一水門の所にあります
写真5は記念碑の日付
おつぼ山神籠石がとても重要な史跡であることが、古田武彦著『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』ミネルヴァ書房に書かれています。武雄中学には古田君という同級生がいた。古田君の存在も私が武雄中学から転出させられた一因である。
2000年11月13日、おつぼ山神籠石に武雄芳輔氏は古田武彦氏を案内した。『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』は1979年に出版されている。古田武彦氏は1979年以前に、おつぼ山神籠石に来たことがある。2000年11月13日におつぼ山神籠石に古田武彦氏を武雄芳輔氏が案内された時は、武雄芳輔氏に武内宿禰について尋ねられたという。

井手洋子さんが親友の江口摩利子さんと別れを惜しんでいる場に私が出くわして、井手洋子さんとの別れの時空選択が発生して江口摩利子さんと同じ高校に入学し卒業したことは、別れの時空選択で述べている。
このことを中川京子さんに知らせることにした。そのために2001年9月8日土曜日に中川京子さんの御両親を訪問した。訪問すると、御尊父が出てこられた。
私は、「京子さんの古い友達について知らせに来ました。」と言った。更に、「京子さんの親友である井手洋子さんの親友である人です。井手洋子さんの住所が分からないので、京子さんに知らせることにしました。」と言って、御尊父に説明を続けた。
すると、奥から「井手洋子さんは、ここにはいらっしゃいませーん。」という声が聞こえて、お母さんが急いで出てこられた。
お母さんは私の顔を見て、「井手洋子さんて、大柄でまん丸としている人でしょう。」と言われた。私は「京子さんと同じ背の高さです」と答えた。お母さんは間違いないと思い、更に私を見つめ続けた。まるで、私が井手洋子さんの婿に相応しいかどうかを鑑定しているように見えた。
本当にそうであったことは後で分かった。私が「井手洋子さんの住所が分からない」と言った箇所だけお母さんに聞こえたらしい。お母さんは井手洋子さんについて話し続けた。井手洋子さんの家は中川氏の家の近くにあったというのである。「井手洋子さん宅とは同じ町内会だったのですよ」と言われた。お母さんは江口摩利子さんには全く関心を示さずに、井手洋子さんと私の仲人をしたいという態度であった。
その間、「変わってる人ね」とか、「中学生の時のことなんか、京子覚えてないと思いますわっ」と言われた。「江口摩利子さんと同じ高校に入学し卒業したことを京子さんに伝えてもらいたいのです」と私が言うと、「そんなことのために来たのですか」と言われた。結局、私が事情を説明している手紙を京子さんに届けてくれることになった。手紙は手書きであった。その手紙を御尊父に渡して、ご両親に読んでもらった。娘の両親に読ませた手紙を娘に送ってほしいというのだから、「変わってる人ね」とか「そんなことのために来たのですか」とか言われるのは当然かもしれない。
2001年9月24日月曜日に京子さんから葉書が来た。その葉書には「武雄小、中の頃をなつかしく思い出しました」と書かれている。中川京子さんのお母さんは中川京子さんに、私が井手洋子さんを捜しに来たと伝えたような文が続く。これで、中川京子さんのお母さんは仲人をしたくて奥から出てきた可能性が高いことになる。
私が中川氏を訪問した時には、岡部薫博士の家から約3kmの所に美術大学があることを、私は知っていた。それから数ヶ月後には、岡部薫博士の家の近くに世田谷美術館があることを知った。井手洋子さんは、デザイナーになることを志望していた。近くにある美術大学は、デザイナー志望者に人気のある大学である。井手洋子さんの家の近くに住んでいた中川京子さんのお母さんは、仲人をするのが好きである。これらをまとめると、井手洋子さんとの別れの時空選択がなかった世界は次のようになる。
私は、おつぼ山神籠石に通い続けた。その度に、井手洋子さんの家の近くと中川京子さんの家の近くを通った。中川京子さんの御母堂が、井手洋子さんと私を親しくさせた。井手洋子さんは美術大学の学生になり、私を後に世田谷美術館が建てられる公園に連れていった。そこで、イオナミンを開発して数年たつ岡部薫氏と、私は知り合った。1972年に岡部薫博士と知り合うことが可能だったのである。なお、世田谷美術館が建てられたのは1986年である。

2001年10月25日には古田武彦氏は東洋書林から『壬申大乱』を出版された。それには飛鳥という字が福岡県小郡市井上にあったという郷土史研究家の調査結果が紹介されていた。もちろん、吉野ヶ里での壬申の乱勃発も書かれている。
2002年5月29日、FUNDAMENTO DE ESPERANTOエスペラント原典をジュンク堂書店で買った。
2002年12月15日日曜日、雷山の不動滝まで行った。12月21日土曜日、「不破乃世伎は関所ではない、雷山神籠石の水門である」と気づいた。
2003年1月6日月曜日、雷山神籠石に行った。
私が武雄中学に入学した時に、同時に入学した幼なじみの市丸藤正君と会うことができなかったことは、 別れの時空選択で述べている。彼の家は、おつぼ山神籠石の近くにあるのではと考えた。捜すと、本当にそうであった。2003年4月6日に彼の家を訪問した。奥様が家にいらっしゃった。奥様は、市丸藤正君が福岡市の小学校に入学したことも、その時の同級生が武雄中学に入学していたこともご存じだった。市丸藤正君は奥様に私のことを話していたのである。
私とおなかにダムを作る錠剤イオナミンとの出会いを妨害するために、私が中学生の時におつぼ山神籠石に行くのを妨害した者がいるのである。その妨害者を時空干渉者と呼ぼう。これがなければ、もっと早くおなかにダムを作る錠剤イオナミンを知ることができたのである。おなかにダムを作る錠剤イオナミンを知ることができたのは1973年だと、2021年まで思っていた。1972年におなかにダムを作る錠剤イオナミンを知った可能性が高いと2022年2月に思うようになった。
私が小学校を卒業した直後に、狡い政治家進藤一馬が福岡高校の体育館建設を利用して一万円巻き上げた。そのおかげで、栄養が落ちてしまった。そのおかげで、私が武雄中学に入学した直後に、母は市丸藤正君のお母さんマツエさんに、家に行く道を尋ねるのを忘れてしまった。狡い進藤一馬が一万円巻き上げたのは、私をおつぼ山神籠石に行かせないための罠だったのである。
これは、私と井手洋子さんとの別れの時空選択を起こすための罠でもあった。さらに、私がおなかにダムを作る錠剤イオナミンを知ることを妨害する罠だったのである。時空干渉者が狡い政治家進藤一馬と教育破壊工場の悪魔達を利用したのであった。
池永正明投手がこの妨害に巻き込まれたことは池永投手の追放は時空干渉で述べている。
大学生の時に国際語教育協議会というエスぺラント語の試験を広めようとする団体に入っていたこともおなかにダムを作る錠剤イオナミンを知ることを妨害する罠の一つであった。これについては国際語教育協議会の崩壊を参照。

2006年5月1日月曜日、エスペラント博士著『国際語LINGVO INTERNACIA』をジュンク堂書店で買った。
2006年5月14日日曜日、熊本県御船町の七滝に行った。
2006年6月17日土曜日、熊本県大津町瀬田に行った。
2007年2月11日日曜日、雷山神籠石に行った。雷山神籠石の写真を撮った。

2007年2月12日月曜日、雷山神籠石の防人と不破乃世伎山背の筒城は雷山神籠石をホームページに発表しました。
2007年2月23日金曜日、雷山神籠石の防人と不破乃世伎関ケ原は不破関でない大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)天武天皇は二人いたがホームページにそろった。これを元にして「不破道を塞げ──壬申の乱は九州」を『古田史学論集』(第十一集、2008年3月31日、明石書店)に発表した。

2007年3月21日水曜日、雷山神籠石に行った。雷山神籠石の写真を撮った。
2007年4月8日日曜日、熊本県菊池市野間口神来、熊本県七城町山崎と鞠智城に行った。
2007年5月2日水曜日、熊本県にある陳内廃寺と塚原古墳公園に行った。
2007年5月13日日曜日、熊本県御船町の七滝に行った。
2007年5月20日日曜日、熊本県大津町瀬田に行った。
2007年5月26日土曜日、熊本県城南町の吉野山に行った。
2007年7月1日日曜日、福岡県久留米市の高良山神籠石に行った
2007年7月7日土曜日、古田武彦氏が久留米大学公開講座で講演した。
2008年5月18日日曜日、熊本県大津町瀬田に行った。
2008年7月5日土曜日、古田武彦氏が久留米大学公開講座で講演した。
2009年1月6日火曜日、David Deutschの論文Quantum mechanics near closed timelike linesを見つけてダウンロードした。
2009年7月4日土曜日、古田武彦氏が久留米大学公開講座で講演した。
2010年7月3日土曜日、古田武彦氏が久留米大学公開講座で講演した。
2010年7月30日金曜日、ロナルド・マレット著「タイム・トラベラー」の広告が朝刊にあった。8月2日日曜日、ロナルド・マレット著「タイム・トラベラー」を買った。
2010年8月6日金曜日、Ronald L. Malletの論文Weak gravitational field of the electromagnetic radiation in a ring laserとThe Gravitational Field of a Circulating Light Beamを見つけてダウンロードした。
2011年4月29日金曜日、熊本県八代市の妙見宮に行った。
2011年5月5日木曜日、熊本県城南町の吉野山にある益城軍団跡地に、益城軍団跡地の地主の方から案内してもらい、説明を聴いた。益城軍団跡地には天満宮がある。
2011年5月17日火曜日、熊本県菊池市野間口神来、熊本県七城町山崎と鞠智城に行った。
2011年7月2日土曜日、古田武彦氏が久留米大学公開講座で講演した。
2011年9月21日水曜日、インターネットを光回線Wi-Fiにした。
2012年3月8日木曜日、福岡県宗像市の宗像大社に行った。
2012年4月27日金曜日、福岡市西区小戸の妙見神社に行った。
2012年6月4日月曜日、携帯電話を買った。
2013年1月1日火曜日、太宰府天満宮に行った。宝満山の妙見祠跡の近くに行った。妙見祠跡は竈門神社の下宮から中宮に行く途中にある溜池の底にある。
2013年1月5日土曜日、福岡市西区西浦の白木神社に行った。白木神社は古くは妙見山にあったという。1月6日日曜日、福岡市西区西浦の妙見山と思われる山を登ろうとしたけど、木と竹が倒れていて登れなかった。
2014年3月2日日曜日、古田武彦氏の講演がアクロス福岡イベントホールであった。700人ほどの人が来ていた。主催したのは宮地獄神社。
2014年6月8日日曜日、Yahoo!ジオシティーズの閲覧数公開が廃止された。
2014年7月3日金曜日、ツィッターを始めた。
2015年3月8日日曜日、次のツイートを見つけた。「@nagisano 8月16日 日出島哲雄氏のHPが3年ぶりに更新されてたのにひと月気付かずにいたとは我ながら不覚。シュタゲとか好きな人は閲覧推奨のリアル想定科学ADV。」。このツイートにより、STEINS;GATEがあるのを知った。2005年1月に私秀島哲雄はホームページを始め、2007年3月にホームページの内容はほぼ揃った。2009年10月15日にSTEINS;GATEの最初の作品が発表されていた。STEINS;GATEは私のホームページの影響を受けている。
2015年5月18日月曜日、時空干渉の検索順位が乗っ取られている。時空干渉というボードゲームが2014年にできていて、こいつが時空干渉の検索順位の最高になったのだ。パクリ後追いのくせに偉そうにしている。ボードゲームいうのがあるのを知った。
2016年1月19日火曜日、電子書籍『時間順序侵害おなかにダム おつぼ山神籠石と時空干渉者』をAmazonに出した。
2020年6月21日日曜日、「万国辞書UNIVERSALA VORTARO」を読み始めた。2020年8月7日金曜日に終えた。
2020年8月8日土曜日、Fundamenta Krestomatioを読み始めた。10月17日土曜日に読み終えた。Fundamenta Krestomatioは442ページある。
2020年11月23日月曜日、物理学辞典(1984年9月30日、培風館)をp12から読み始めた。p11までは、これ以前に読んだことがあった。2021年8月4日火曜日、物理学辞典をp2385まで読み終えた。全頁読み終えた。
2021年2月20日土曜日、スマートフォンを買った。二つ折り携帯電話からスマホに替えた。
2021年3月14日日曜日、国際語エスペラントの動画をスマホのYouTubeで聞き始めた。
2021年5月10日月曜日、西鉄ライオンズの動画をスマホのYouTubeで見る聞くを始めた。
2021年9月19日日曜日、原田大六著『日本国家の起原』を読み始めた。10月15日金曜日、読み終えた。
2022年11月10日木曜日、熊本県大津町瀬田に兄をつれて行った。大分君稚臣が橋を渡った場所を兄に教えた。
2023年5月3日水曜日、井上光貞著『日本国家の起原』を買った。
2023年7月27日木曜日まで、国際語教育の検索順位1位は国際語教育協議会の崩壊であった。国際語教育を検索すると、ヒット数は100,000,000以上である。パソコンで検索すると、ヒット数が出てくる。スマホで検索すると、ヒット数は出てこない。
国際語教育協議会の崩壊を読むと、国際語エスペラントの単語を検索できるようになる。国際語エスペラントをきちんと説明するように書いたら、読むと国際語エスペラントの単語を検索できる内容になっていた。きちんと説明するとは、国際語エスペラントの文献、動画、団体を知らせることである。
2023年7月28日金曜日、国際語教育のスマホでの検索順位を3位に落とされた。1位は白川尚志という人物のPDF。2位は文部科学省のPDF。どちらも、国際語教育を使っていない。
2023年8月11日金曜日、国際語教育のスマホでの検索順位を5位に落とされた。上位4者は、国際語教育を使っていない。
2023年8月13日日曜日、国際語教育のパソコンでの検索1位は国際語教育協議会の崩壊
2023年9月13日水曜日、第2次岸田内閣、文部科学大臣に盛山正仁氏。
2023年9月14日木曜日、国際語教育のスマホでの検索で文部科学省のPDFが1位。
2023年9月22日金曜日、国際語教育のパソコンでの検索でも国際語教育協議会の崩壊は5位に落とされた。
2023年10月3日火曜日、四つの用語を検索した。
日本語こそ国際語、を検索すると、ヒット数は48,600,000。1位は、朝日新聞デジタルの、英語信仰は「壮大なムダ」、言語学者の危惧「日本語こそ国際語」。
国際共通語を、検索すると、ヒット数は26,800,000。2位はバイリンガルサイエンス研究所の、人工的な国際共通語「エスペラント」。3位は文部科学省の、国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的...。
国際語としての英語を、検索すると、ヒット数は44,100,000。白河尚志の、英語教育における「国際語としての英語」。
国際語教育を検索すると、174,000,000。7月27日木曜日まで1位だった国際語教育協議会の崩壊は5位に落とされている。その後、4位になる。
1位は、朝日新聞デジタルの、英語信仰は「壮大なムダ」、言語学者の危惧「日本語こそ国際語」。
2位は、白川尚志の、英語教育における「国際語としての英語」。
3位は、文部科学省の、国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的...。
4位は、バイリンガルサイエンス研究所の、人工的な国際共通語「エスペラント」。その後、5位になる。二葉亭四迷著『世界語』と『世界語読本』が国会図書館デジタルコレクションにあることを、バイリンガルサイエンス研究所は知らない。国会図書館デジタルコレクションはインターネットで読める。
日本人は英語が苦手というのはウソだ、と菊池健彦氏は『イングリッシュ・モンスターの最強英語術』のChapter2に書いている。朝日新聞デジタル、白川尚志、文部科学省は、これを知らない。知っていれば、国際語教育の検索で、国際語教育協議会の崩壊を1位から落とさない。
13位は、国際語教育協議会についてーESPREANTO.jp。本来、2位であった。10月21日、5位。
白川尚志は学習院高等科の外国語教諭であるという。朝日新聞デジタルの記事の話し手は永井忠孝という青山学院大学経営学部マーケティング科の教授で言語学を教えているという。永井忠孝の攻撃対象はTOEICである。文部科学省と外国語教諭はTOEICを嫌う。国際語教育の検索で国際語教育協議会の崩壊を1位から蹴落としているのはTOEICを嫌う勢力である。TOEICを活用している人たちは国際語教育協議会の崩壊を攻撃しないことが分かったのは2024年3月23日金曜日であった。国際語エスペラントを話している動画に楽天は広告を出している、YouTubeで。

古田史学論集 古代に真実を求めて』(明石書店)に発表している論文
「不破道を塞げ──壬申の乱は九州」(第十一集、2008年3月31日)
「不破道を塞げ二瀬田観音と内裏攻め」(第十二集、2009年3月31日)
「不破道を塞げ三天子宮が祀るは、瀬田観音にいた多利思北孤」(第十三集、2010年4月)
「不破道を塞げ四高良山神籠石の美濃師三千人、基肄城への不破道を塞ぐ」(第十四集、2011年4月)
「不破道を塞げ五古人は白村江の勇将の主君、吉野山・瀬田・山前は妙見を祀る」(第十五集、2012年)
「東京古田会ニュース」に次の記事を発表しています。「東京古田会ニュース」は「古田武彦と古代史を研究する会」の会報です。
「古田先生の思いでは大国主・少名彦・五十猛」166号2016年1月
「熊本地震の益城軍団の地の被災」169号2016年7月
「唐による破壊がない前期難波宮九州王朝副都説」173号2017年3月
「唐が壊した山崎古墳・吉野山古墳・妙見」175号2017年7月
「九州王朝最後は葛野王、文武の立太子に反対した弓削皇子」177号2017年11月
「弘文天皇最期の地山前に西郷氏の霊社」185号2019年3月
「東日流語部の伝承は多倍年暦では」197号2021年3月
「大田皇女が長生きしていれば大津皇子の「とかなくてしす」はなかった」200号2021年9月
2022年1月、東京古田会ニュース発刊200号記念「DVD」完成。通常販売価格2,800円(ケース付き)、会員特別価格2,000円(ケース付き)
2022年3月1日、東京古田会ニュース発刊200号記念「DVD」到着

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日出島哲雄(秀島哲雄)

2018年10月1日に「2019年3月31日Yahoo!ジオシティーズのサービスを終了」というメールが来た。
恐ろしい。
そのメールにはホームページの引越先が6つ紹介されていた。
さくらのレンタルサーバー、LOLIPOP、XSERVER、XREA、忍者ホームページ、StarServerであった。
ジオシティーズにあるホームページと同じホームページを引越先のサーバーにアップロードすることはできる。
新しいホームページは検索されて出てくるようになるまで長い月日を必要とするのである。
さくらのレンタルサーバー、LOLIPOP、XSERVERは有料なので使う気がしない。
XREA、忍者ホームページ、StarServerには無料サーバーがあるので、この三つから選ぶことになる。
忍者ホームページには悪い評判がないので、忍者ホームページを選んだ。
2019年2月27日水曜日Yahoo!geocitiesから忍者ホーページhidesxima.ojaru.jpに引っ越し。
Yahoo!geocitiesから引っ越し。Yahoo!ジオシティーズから引っ越し。
2019年3月28日木曜日Yahoo!geocitiesから忍者ホーページhidesxima.ojaru.jpに転送設定。
2019年3月31日Yahoo!ジオシティーズのサービス終了。