天武天皇は二人いた

大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)で私は、天武天皇が合成人物であることを指摘した。では、岩波文庫の『日本書紀』の「天武紀」下の天皇の子達を記している箇所を見てみよう。

正妃を立てて皇后とす。后、草壁皇子尊を生れます。先に皇后の姉大田皇女を納して妃とす。大来皇女と大津皇子とを生れませり。次の妃大江皇女、長皇子と弓削皇子とを生れませり。次の妃新田部皇女、舎人皇子を生れませり。又夫人藤原大臣の女氷上娘、但馬皇女を生めり。次の夫人氷上娘の弟五百重娘、新田部皇子を生めり。次の夫人蘇我赤兄大臣の女太娘、一の男・二の女を生めり。其の一を穂積皇子と曰す。其の二を紀皇女と曰す。其の三を田形皇女と曰す。天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり。次に宍人臣大麻呂が女かぢ媛娘、二の男・二の女を生めり。其の一を忍壁皇子と曰す。其の二を磯城皇子と曰す。其の三を泊瀬部皇女と曰す。其の四を託基皇女と曰す。

「田形皇女と曰す」まで皇子皇女を記した次に、「天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して」は不自然な文である。「草壁皇子尊」の「尊」と「高市皇子命」の「命」の表記の違いは出典が異なることを示している。草壁皇子尊から田形皇女までの父親と十市皇女から託基皇女までの父親は別人である。
大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)から前者が大海人皇子であり、後者が壬申の乱を起こした人物であることが分かる。天武天皇が二人いたことは、高市皇子命天皇説と七0一年(大宝元年)の王朝交代の証拠となる。
高市皇子命天皇説の根拠は二つある。斉藤忠氏は『倭国と日本古代史の謎』(学習研究社、二00六年)で高市皇子天皇説の二つの根拠を述べている。また、七0一年(大宝元年)の王朝交代について述べている。
斉藤忠氏はまず高市皇子が亡くなった後の皇位継承会議について述べている。

彼(高市皇子)の死後、皇位継承者がいないので、それを選ぶ会議がもたれた。ところが、会議の模様を伝える『懐風藻』の「葛野王伝」は、「高市皇子薨りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。時に群臣各私好を挟みて、衆議粉紜なり」と記す。

高市皇子が亡くなって日嗣を立てる衆議は、高市皇子が天皇でなかったなら不要であると私は思う。斉藤忠氏は次に長屋親王について述べている。

高市皇子の嫡子に長屋王がいた。平城京の邸宅跡から大量の木簡が出土したが、中に「長屋親王宮鮑大贄十編」と墨書されたものがあった。彼は長屋親王と呼ばれていたのだ。9世紀の仏教説話集『日本霊異記』にも「長屋親王」とある。
「大宝律令」によれば、親王とは父が天皇か、兄弟が天皇の場合のみ許される尊称だ。長屋王の兄弟(男一、女二)に天皇はいないし、それを匂わす異伝もない。すると、父・高市皇子が天皇だったことになる。

斉藤忠氏は次に七0一年(大宝元年)の王朝交代について述べている。

『新唐書』は『日本書紀』と異なる情報を我々に提供してくれる。たとえば、「長安元年(七0一年)、その王(文武)立ち、大宝と改元した」という一節だ。
『日本書紀』によれば、文武天皇は六九七年に即位する。また『続日本紀』によれば、大宝元年は七0一年だ。改元の年次は日中の史書ともに一致するが、文武の即位年がずれている。
まず注目したいのは、『新唐書』の伝える「大宝と改元した」という情報だ。改元はその前にも元号があり、それをやめて新たな元号に置き換えることが本義だ。ところが『日本書紀』『続日本紀』にも、大宝にバトンタッチされた元号に言及しない。『新唐書』は嘘をついているのだろうか。
すでに触れたように、一連の年号群「九州年号」が存在している。三二からなる一連の年号は五二二年以降連綿と続き、六九五年を元年とする大化を最後に消滅する。
『新唐書』が九州年号を知っていたかどうかは不明だが、大宝へバトンタッチされる元号の存在を認識した上で「改元」なる表現をとったことは明らかだ。
「九州年号」は大化六年(七00年)をもって消滅するが、大宝とそれに続く元号群が七0一年以降連綿と続く。このことは、それらが「九州年号」にとって替わったことを意味する。元号とは絶対暦年(年代座標)を確定するため、切れ目なく連綿と続くのが本義だし、天子が定めるものなのだ。元号と王朝は表裏一体のものなのだ。
であれば、七0一年に朝廷が交替したととる他ない。易姓革命があり、文武は新王朝の君主として立った、ということになろう。

文武天皇は日並知皇子尊の第二子であると『続日本紀』に記されている。日並知皇子尊は草壁皇子と同一人物だという。草壁皇子尊の父親と高市皇子命の父親は別人である。高市皇子命から文武に皇位が移ったことは易姓革命である。
日並知皇子尊と草壁皇子が同一人物であるという確証をわたしはまだ見ていない。この二人が同一人物でなければ、七0一年(大宝元年)の王朝交代は、より複雑になる。

関ケ原は不破関でない雷山神籠石の防人と不破乃世伎大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)天子宮と瀬田観音堂が阿蘇山の西にあるも読まれてください。

『古田史学論集 古代に真実を求めて』(明石書店)に発表している論文
「不破道を塞げ──壬申の乱は九州」(第十一集、2008年3月31日)
「不破道を塞げ二瀬田観音と内裏攻め」(第十二集、2009年3月31日)
「不破道を塞げ三天子宮が祀るは、瀬田観音にいた多利思北孤」(第十三集、2010年4月)
「不破道を塞げ四高良山神籠石の美濃師三千人、基肄城への不破道を塞ぐ」(第十四集、2011年4月)
「不破道を塞げ五古人は白村江の勇将の主君、吉野山・瀬田・山前は妙見を祀る」(第十五集、2012年)
「東京古田会ニュース」に次の記事を発表しています。「東京古田会ニュース」は「古田武彦と古代史を研究する会」の会報です。
「古田先生の思いでは大国主・少名彦・五十猛」166号2016年1月
「熊本地震の益城軍団の地の被災」169号2016年7月
「唐による破壊がない前期難波宮九州王朝副都説」173号2017年3月
「唐が壊した山崎古墳・吉野山古墳・妙見」175号2017年7月
「九州王朝最後は葛野王、文武の立太子に反対した弓削皇子」177号2017年11月
「弘文天皇最期の地山前に西郷氏の霊社」185号2019年3月
「東日流語部の伝承は多倍年暦では」197号2021年3月
「大田皇女が長生きしていれば大津皇子の「とかなくてしす」はなかった」200号2021年9月
2022年1月、東京古田会ニュース発刊200号記念「DVD」完成。通常販売価格2,800円(ケース付き)、会員特別価格2,000円(ケース付き)
2022年3月1日、東京古田会ニュース発刊200号記念「DVD」到着

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日出島哲雄(秀島哲雄)

2018年10月1日に「2019年3月31日Yahoo!ジオシティーズのサービスを終了」というメールが来た。
恐ろしい。
そのメールにはホームページの引越先が6つ紹介されていた。
さくらのレンタルサーバー、LOLIPOP、XSERVER、XREA、忍者ホームページ、StarServerであった。
ジオシティーズにあるホームページと同じホームページを引越先のサーバーにアップロードすることはできる。
新しいホームページは検索されて出てくるようになるまで長い月日を必要とするのである。
さくらのレンタルサーバー、LOLIPOP、XSERVERは有料なので使う気がしない。
XREA、忍者ホームページ、StarServerには無料サーバーがあるので、この三つから選ぶことになる。
忍者ホームページには悪い評判がないので、忍者ホームページを選んだ。
2019年2月27日水曜日Yahoo!geocitiesから忍者ホーページhidesxima.ojaru.jpに引っ越し。
Yahoo!geocitiesから引っ越し。Yahoo!ジオシティーズから引っ越し。
2019年3月28日木曜日Yahoo!geocitiesから忍者ホーページhidesxima.ojaru.jpに転送設定。
2019年3月31日Yahoo!ジオシティーズのサービス終了