大矢野栄次教授の壬申の乱、種本は近畿説

一 秀島哲雄、「壬申の乱は九州」のプリントを大矢野栄次教授に渡す

二000年一月九日、福岡市で古田武彦氏の講演があった。壬申の乱の吉野は佐賀県の吉野ヶ里という話だった。二00一年には古田武彦氏は東洋書林から『壬申大乱』を出版された。それには飛鳥という字が福岡県小郡市井上にあったという郷土史研究家の調査結果が紹介されていた。もちろん、吉野ヶ里での壬申の乱勃発も書かれている。
古田武彦氏の講演を聴いて、弘文天皇は九州にいたのではと思い、調べ始めた。『万葉集』を調べて、不破乃世伎が福岡県糸島市の雷山神籠石に今でもあることが分かった。不破乃世伎は関所ではない。関ヶ原が不破関と呼ばれたことはないことも分かった。
二00六年三月、『古田史学論集』第十集の「『古事記』序文の壬申大乱」で古賀達也氏は高良山神籠石で壬申の乱が勃発したという説を発表された。
二00七年七月一日に秀島哲雄は高良山神籠石に行った。不破道を塞いだ美濃師三千人は高良山神籠石にいたと確信した。この数日後に最初の論文「不破道を塞げ─壬申の乱は九州─」ができた。その目次は次のとおりである。
「不破道を塞げ(壬申の乱は九州)
一 関ケ原は不破関でない
二 雷山神籠石の防人と不破乃世伎
三 大友皇子と鞠智城
四 天武天皇は二人いた」
不破乃世伎は福岡県糸島市の雷山神籠石に今でもある。不破乃世伎は関所ではない。関ヶ原が不破関と呼ばれたことはない。大分君稚臣が橋を渡った瀬田は熊本県大津町瀬田である。弘文天皇の最期の地である山前は熊本県菊池市七城町山崎である。不破道を塞いだ美濃師三千人は高良山神籠石にいた。草壁皇子尊の父親と高市皇子命の父親は別人である。以上がこの論文の概要である。この論文で弘文天皇(大友皇子)が九州王朝の人であることが明らかになった。福岡県糸島市の雷山から熊本県の阿蘇山の西にかけてが壬申の乱の地域である。
実は、不破乃世伎が福岡県糸島市の雷山神籠石に今でもあることが先に分かり、後で関ヶ原が不破関と呼ばれたことはないことが分かった。しかし、関ヶ原が不破関と呼ばれたことはないことを真っ先に述べるべきだと思った。これだと、「不破を好きかってな所に持っていける」と思う読者が現れることなんて想像もしなかった。そういう読者には福岡県糸島市の雷山神籠石の不破乃世伎は邪魔なのである。
高良山の近くに久留米大学がある。七月七日、久留米大学公開講座で古田武彦氏の講演があった。秀島哲雄は数人の受講者に「不破道を塞げ(壬申の乱は九州)」のプリントを渡した。古田氏はこれ以来二0一一年まで、七月の第一土曜日に久留米大学公開講座で九州王朝について講演されている。
二00七年八月四日に大矢野栄次教授の講演があった。毒にも薬にもならない話だった。講演後、秀島哲雄は大矢野栄次教授に「不破道を塞げ(壬申の乱は九州)」のプリントを渡した。
八月二十五日に大矢野教授に会うと「菊池に行った」と言う。弘文天皇の最期の地である山前である菊池市七城町山崎に行ったのかなと思った。そうでないと分かったのは二00九年九月十二日であった。
二00八年三月、『古田史学論集』第十一集に「不破道を塞げ(壬申の乱は九州)」が発表された。この時秀島哲雄は、肥後の瀬田を東から攻めると大分君稚臣は橋を渡る必要がないという反論を予想していた。瀬田観音前というバス停があり、瀬田観音が何かが気になっていた。

二 大矢野栄次教授、壬申の乱九州説つぶしを開始

二00八年に大矢野教授は「来年は壬申の乱にします」と言った。2009年2月1日(日)14:00-16:00にえーるピア久留米で大矢野教授は「壬申の乱と久留米―天武天皇は久留米にいた?」という講演をした。「壬申の乱九州説−奈良に行ったこともない、天智天皇と天武天皇」という講演だったともいう。秀島哲雄はこの講演には行かなかった。
二00九年三月、秀島哲雄の「不破道を塞げ二(瀬田観音と内裏攻め)」が『古田史学論集』第十二集に発表された。
二00九年八月二十二日に大矢野教授の講演の教材を見ると、秀島哲雄の論文とは大幅に異なる。不安になり、秀島哲雄は最初の論文「不破道を塞げ(壬申の乱は九州)」をブリントした。二番目の論文「不破道を塞げ二(瀬田観音と内裏攻め)」もブリントしたかったけど、その時間はなかった。
二00九年九月十二日に大矢野教授は「九州王朝と壬申の乱」という講演をした。講演の副題は「日出島哲雄説「壬申の乱は九州」の検証」である。講演の前に秀島哲雄は「不破道を塞げ(壬申の乱は九州)」のブリントを受講者85人に配った。
大矢野教授の講演は嘘八百の話だった。「検証」とは「つぶす」という意味であった。神籠石は全く出てこなかった。パワーポイントを使う暗記授業であった。
久留米大学は高良山神籠石の近くにあるので、大矢野教授は神籠石に関心を持っていると秀島哲雄は思っていた。大矢野教授は大分県日田市高瀬の美濃台地を壬申の乱の美濃だと言った。日田市高瀬の美濃台地が出ている地図を私は見たことない。インターネットで調べるとあると分かった。
大矢野教授は、日田から飛騨・美濃を連想させたいのである。古田武彦氏が壬申の乱吉野ヶ里勃発説を発表した直後なら、過渡的な説として意味があったかもしれない。しかし、不破乃世伎が雷山神籠石にあり大分君稚臣が橋を渡った瀬田は熊本県大津町瀬田であることが発表された後では無意味である。
日田市の近くには杷木神籠石があるけど、大矢野教授は杷木神籠石についても話さない。杷木神籠石を知らないようである。

三 大矢野栄次教授の壬申の乱の種本は近畿説

大矢野教授の講演の後に『新説・「壬申の乱」 広瀬と竜田立野を恐れる天武天皇』という大矢野教授の小冊子が売られていた。その目次は以下のとおりである。
「0. はじめに
1. 祟りを恐れる天武天皇
2. 飛鳥から嶋宮へ
3. 朴井連雄君の報告
4. 「定説の無理」
5. 不破道を塞げ
6. 近江側の対応
7. 大海人皇子側の反撃
8. 瀬田橋の戦い
9. 大伴吹負の奈良大和の戦い
10.大海人皇子の倭京への帰還
11.おわりに − 九州王朝の終焉」
目次を見ると近畿説と区別がつかない。目次には壬申の乱の場所を九州とは書いていない。本の末尾に書いてある参考文献を見ると、近畿説の本ばかりである。近畿説の本を種本にしているのである。
『新説・「壬申の乱」 広瀬と竜田立野を恐れる天武天皇』という書名について知っておくべきことがある。広瀬と竜田をとりあげて有名なのは梅原猛氏である。1970年には梅原猛氏は発表している。大矢野教授は梅原猛氏について全く言及していない。
『新説・「壬申の乱」 広瀬と竜田立野を恐れる天武天皇』の最初の頁には、グーグルアースから作った地図がある。それには大分県(豊後)を東国と書いてある。
大矢野教授の本音は、豊後を東国にしたいのである。大分君稚臣が橋を渡った瀬田が熊本県大津町瀬田すなわち阿蘇山の西なら、阿蘇山の東である豊後を東国にしたいのである。
いや、「壬申の乱は九州」が広まってきたので東国を九州に持ち込んでいるのである。九州の中で最も東にあるのは豊後である。肥後の瀬田よりも豊後東国を優先しているのである。壬申の乱の反乱軍の首領が豊後に逃げたという話にしたいのである。中身は近畿説のままで場所を豊後にしたいだけである。
秀島哲雄は最初の論文「不破道を塞げ(壬申の乱は九州)」で、不破乃世伎は雷山神籠石の水門であることを示した。不破は神籠石、大野城、基肄城、鞠智城、水城のいずれかになる。豊後には神籠石、大野城、基肄城、鞠智城、水城がないから、不破はないのである。豊後に反乱軍の首領が逃げたということはありえないのである。
大矢野教授は壬申の乱九州説に嘘を持ち込んでいるのである。それにより壬申の乱九州説をつぶすのが目的なのである。阿蘇山の東である豊後に不破を持ち込んで壬申の乱九州説を近畿説化するとは秀島哲雄は予想できなかった。
豊後を東国にしたい大矢野教授にとっては神籠石は目の敵である。大矢野教授の講演に神籠石が出てくることはない。
秀島哲雄の論文を読んで関ヶ原が不破関と呼ばれたことはないことを知った大矢野栄次教授は「不破を好きかってな所に持っていける」と思ったのである。福岡県糸島市の雷山神籠石にある不破乃世伎は大矢野栄次教授には、つぶす対象なのである。それにより壬申の乱九州説をつぶすのが目的なのである。

三・一 東から西に流れる白川を「南北に流れる」という大矢野栄次教授、おつむは近畿説

豊後を東国にしたいという大矢野教授の執念は熊本県の白川の流れを変えてしまう。白川は東から西に流れていて、瀬田は白川の北にある。 ところが、大矢野栄次教授は、公開講座で「白川の瀬田の地区は南北に流れている場所である」と嘘を教えている。
秀島哲雄が大分君稚臣が橋を渡った瀬田を熊本県大津町瀬田と主張し始めた時に壬申の乱近畿説の論者たちからの攻撃として予想したのは、「東から瀬田を攻めると大分君稚臣は橋を渡る必要がない」であった。まさか、強引に熊本県大津町瀬田を東から攻めたという嘘が出てくるとは予想しなかった。
豊後から、すなわち東から熊本県大津町瀬田を攻めたとするために、大矢野栄次教授は白川の蛇行している部分を強引に「南北に流れている」と主張している。大矢野教授のおつむは完全に近畿説である。滋賀県の瀬田では川は北から南に流れている。
東から西に流れている川を南北に流れているという他にも、大矢野栄次教授の嘘は多い。多すぎて反論は長くなるので、秀島哲雄に書く時間はない。それよりも秀島哲雄は論文を増やして真実を知ってもらうのに時間を優先している。
なお、「熊本県大津町瀬田を東から攻めると橋を渡る必要がないなら、大分君稚臣が橋を渡った瀬田は近畿だ」と思う人がいると思う。そう思う人は秀島哲雄が『古田史学論集』第十四集の「不破道を塞げ四(高良山神籠石の美濃師三千人、基肄城への不破道を塞ぐ)」に書いている次の説明を読んで欲しい。
「 大分君稚臣は同族阿蘇君の本拠地から瀬田に渡った。
内務省地理局が編纂した『明治前期全国村名小字調査書』(ゆまに書房、一九八六年)によると、熊本県大津町の瀬田は明治時代前期には合志(こうし)郡であった。川向かいの大津町外牧(ほかまき)は阿蘇郡であった。瀬田神社が祀っているのは妙見宮であり、外牧神社が祀っているのは阿蘇一宮である。
「神武記」には、神武の子である神八井耳命の子孫として細字で、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君他が記されている。瀬田の内裏攻めで橋を渡った大分君稚臣は阿蘇君と同族ということになる。
大分君稚臣が橋を渡った瀬田が熊本県の地であったならば、大分君稚臣は橋を渡る前に阿蘇にいたことになる。阿蘇に大分君稚臣がいて不思議ではない。同族阿蘇君の本拠地にいたことになるのであるから。
ということは、大分君稚臣は反乱軍の首領が逃げるのについていかなかったことになる。反乱軍の首領が逃げた事件そのものが信じられない。」

三・二 大矢野栄次教授は二00六年に古田説と無関係の古代史講演、二00七年古田武彦氏が久留米大学で初講演

私は大矢野栄次教授が古田武彦氏のファンであると思い込んでいた。他の久留米大学公開講座の受講者もそうであろう。ところが、二00六年に大矢野栄次教授は古田説と無関係の古代史講演をしているのである。古田武彦氏の久留米大学での初講演は二00七年である。
二00七年に古田武彦氏が久留米大学で初講演をされた時、二00六年に大矢野栄次教授が講演していたので古田武彦氏の講演の数週間後に大矢野栄次教授も講演したのである。大矢野栄次教授は古田武彦氏のファンではないのである。

三・三 大矢野栄次教授は安本美典氏の孫分と親しい

二0一一年八月、大矢野栄次教授が講演する前日に講演したF氏は奥野正男氏の子分である。奥野正男氏は安本美典氏の子分である。安本美典氏は古田武彦氏の九州王朝説をつぶす工作をしていることで有名である。F氏は安本美典氏の孫分ということになる。
九州王朝説をつぶす工作をしている安本美典氏の孫分と大矢野栄次教授は親しいのである。このことは、久留米大学の古代史の公開講座に長く通っている人なら、だれでも知っている。大矢野栄次教授は古田武彦氏のファンではないのである。古田武彦氏も大矢野栄次教授を知らないという。

四 梓書院からの出版、梓書院は安本美典氏が編集している『季刊邪馬台国』を出している出版社

大矢野栄次教授は梓書院から次の本を出している。

【書籍正式名】壬申の乱の舞台を歩く ―九州王朝説―
【著 者 名】大矢野栄次
【発行年月日】2013年1月10日
【総ページ数】204
【 判サイズ 】A5判
【 商品説明 】
2013年1月発売開始!!
予約受付中!!
経済学がご専門で、私の指南役でもある大矢野先生がすばらしい歴史本を書かれました。
「『古事記』や『日本書紀』そして『万葉集』の舞台は九州である。すなわち天智天皇、天武天皇、さらに持統天皇までもが九州の菊池や久留米
で活躍をした。ということは飛鳥宮や藤原宮までもがこの地である。」
この説には非常に興味があり、改めて歴史の奥深さを感じました。
「これぞ歴史」ですね!!
衆議院議員 鳩山邦夫 (帯文より)
目次
プロローグ 『古事記』と『日本書紀』
第1話 有明海周辺の双子の地名達
第2話 志賀海神社と風浪宮、宗像大社 海の神様は三つの種類
第3話 風浪宮から出雲大社までの不思議な繋がり
第4話 大善寺玉垂宮
第5話 近つ淡海と遠つ淡海
第6話 祟りを恐れる天武天皇 「竜田立野の風の神」と「広瀬の水の神」
第7話 二つの吉野、二つの榎津 ―飛鳥から嶋宮へ―
第8話 大海人皇子の東国への逃避行
第9話 大海人皇子と高市皇子
第10話 不破道を塞げ ―朴井連雄君の報告
第11話 大伴吹負:奈良大和の戦い
第12話 天武天皇の即位
第13話 郭務悰と水城の堤防
第14話 天武天皇と持統天皇
エピローグ 結びにかえて
【 著者情報 】
大矢野栄次(おおやのえいじ)
1950 年 愛媛県生まれ
1974 年 中央大学経済学部卒業
1982 年 東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得
1982 年 佐賀大学経済学部講師、助教授
1994 年 久留米大学経済学部教授
■主要著書
『現代経済学入門』同文出版、1989年
『ケインズ経済学の可能性 ―複雑系をヒントに―』(久留米大学経済叢書7)
九州大学出版会、2001年
『経済政策の考え方 マニフェストを読む前に』中央経済社、2004年
『貿易資本と自由貿易』(久留米大学経済叢書15)同文出版、2008年
『マニフェストから学ぶ経済学』創成社、2010年
『消費税10%上げてはいけない!』創成社、2011年
『東日本大震災からの復興戦略 復興に増税はいらない!』創成社、2012年

2012年12月では【書籍正式名】は「壬申の乱を歩く ―九州王朝説―」となっていた。梓書院といえば、安本美典氏が編集している『季刊邪馬台国』を出している出版社である。安本美典氏は古田武彦氏の九州王朝説をつぶす工作をしつこく続けていることで有名である。
大矢野栄次教授の『壬申の乱の舞台を歩く ―九州王朝説―』は安本美典氏が容認できる内容だということになる。近畿説を種本にしているから安本美典氏が容認できるのは当然である。
大矢野栄次教授著『壬申の乱の舞台を歩く ―九州王朝説―』は九州王朝説の壬申の乱ではないのである。

四・一 『壬申の乱の舞台を歩く ―九州王朝説―』の「あとがき」の誤りと嘘

久留米大学公開講座での古田武彦氏の年一回の講演は五年続いた。『壬申の乱の舞台を歩く ―九州王朝説―』の「あとがき」には三年続いたと書かれている。また、秀島哲雄を秀島哲夫と書いている。以上は誤りである。
秀島哲雄(「大矢野栄次教授は秀島哲夫と書いている)が「壬申の乱は九州」のプリントを大矢野栄次教授に渡した時に「調べてください」と言ったという。これは嘘である。プリントがあるのだから、調査はすでに済んでいるのである。「調べてください」と言うはずがないでしょう。秀島哲雄が調査する能力がなく大矢野栄次教授が有能だと思わせるための嘘である。
2007年の久留米大学公開講座の古代史では秀島哲雄は数人の受講者に論文のブリントを渡している。大矢野栄次教授は受講者と同じ程度の知識だと秀島哲雄は思っていた。実際には大矢野栄次教授の古代史知識は受講者より低い。
秀島哲雄は大矢野栄次教授に「大分君稚臣が橋を渡った瀬田は熊本県大津町瀬田です。不破道を塞いだ美濃師三千人は高良山神籠石にいました」と言ったのである。高良山神籠石は久留米大学の近くにあるので、高良山神籠石についての見解を大矢野栄次教授に期待した。その後、大矢野栄次教授は高良山神籠石について全く言及していない。いや、神籠石に全く言及していない。このことを大矢野栄次教授の講演の受講者は皆知っている。

四・二 安本美典氏は久留米大学公開講座での講演を要求できることになる

安本美典氏が編集している『季刊邪馬台国』を出している梓書院から大矢野栄次教授が『壬申の乱の舞台をを歩く ―九州王朝説―』を出したということは、安本美典氏が久留米大学公開講座での講演を要求できるということである。久留米大学は断ることができない。
安本美典氏が久留米大学公開講座で講演できれば、大矢野栄次教授は『季刊邪馬台国』の次の編集長を狙える。

四・三 大矢野栄次教授を恐れて、神籠石と天子宮の研究が出なくなった

秀島哲雄の論文には神籠石と天子宮が出てくる。不破乃世伎は筑前糸島の雷山神籠石に今もあるのである。肥後の瀬田の近くには天子宮がある。雷山のふもとにも天子宮がある。壬申の乱の戦域は筑前糸島の雷山神籠石から肥後の瀬田、すなわち雷山から阿蘇山の西になるのである。
大矢野栄次教授の著作には神籠石と天子宮は出てこない。阿蘇山の東である豊後を東国にしている。すなわち近畿説を種本にしている。近畿説を種本にしている大矢野栄次教授にとって神籠石と天子宮は邪魔なのである。
大矢野栄次教授の講演を聞く人たちは、秀島哲雄の論文をつぶすための凄まじい弾圧を実際に見ている。弾圧対象が神籠石と天子宮であることを知っている。弾圧対象には瀬田観音堂も入っている。
大矢野栄次教授の講演を聞く人たちは、神籠石・天子宮・瀬田観音堂について決して口にしない。これらを口にすれば、大矢野栄次教授の講演会場から追い出されそうな雰囲気な
のである。
大矢野栄次教授を恐れる雰囲気は大矢野栄次教授の外にも広がっている。2012年に発行した九州古代史の会の論文集には神籠石と天子宮の論文がない。それほど大矢野栄次教授を恐れているのである。

四・四 「壬申の乱は九州」をつぶすために多くの金と労力を既に費やしている大矢野栄次教授

大矢野栄次教授は秀島哲雄の「壬申の乱は九州」をつぶすために講演を数十回行っている。そのための著作も出版している。もう既に多くの金と労力を費やしているのである。
秀島哲雄の「壬申の乱は九州」をつぶすための講演をしている時の大矢野栄次教授は生き生きとしていて幸せそうである。

付録
秀島哲雄の壬申の乱九州説は天子宮と瀬田観音堂が阿蘇山の西にあるで知ることができます。
このサイトの頁構成図
日出島哲雄(秀島哲雄)

2018年10月1日に「2019年3月31日Yahoo!ジオシティーズのサービスを終了」というメールが来た。
そのメールにはホームページの引越先が六つ紹介されていた。
2019年2月27日水曜日Yahoo!geocitiesから忍者ホーページhidesxima.ojaru.jpに引っ越し。
Yahoo!geocitiesから引っ越し。Yahoo!ジオシティーズから引っ越し。
2019年3月28日木曜日Yahoo!geocitiesから忍者ホーページhidesxima.ojaru.jpに転送設定。
2019年3月31日Yahoo!ジオシティーズのサービス終了